働く女性の全国センター(ACW2) 第10回年次大会
「週3日労働で生きさせろ」
「標準労働者モデル」から「制約ある働き方」へ
堅田香緒里(法政大学)
2016年2月20日
東京都三鷹市市民協働センターにて
今年度のテーマは「週3日労働で生きさせろ!―〈標準労働者モデル〉から〈制約ある働き方〉へ」。
シンポジウムはACW2代表栗田さんと運営委員のナガノさんの趣旨説明からスタートした。栗田さんからは、自身も実際にパートの短時間労働を行っており、細切れの労働がこの日本社会で増えている、と。
ナガノさんから、「自分の本当の希望は何かと思った時、週3日位働いて生きていけたらなーというつぶやきみたいなのがあって、これは制約のある働き方をしている人たちの実感に近いのではないか」。また、「生きさせろ!」というのは、「自分が自分を養える賃金をよこせ!」に近い意味合いである、と。
労働の話と社会保障の話もできる若い世代の講師として、36歳の法政大学講師の堅田香緒里さんから問題提起がされた。堅田さんの話の中で、今回のテーマの中心的部分について概要を報告する。
(まとめ:ACW2 運営委員会)
■堅田香緒里さんの自己紹介
20代はものすごくしんどくて、何よりもお金がなく、学費と生活費を稼ぐために、早朝のコンビニとテレフォンアポインター等の仕事で週7日働いていたこともあった。が、アルバイトは就職とは認められず、仕事もせずに自分の好きなこと(学問)をしている中で、三大「ちゃんとしろ」イデオロギー、①「ちゃんと働け」イデオロギー→「就活」、②「(ちゃんと)結婚しろ」イデオロギー→「婚活」、③「ちゃんと子どもを産め」イデオロギー→「妊活」にがんじがらめになってしんどかった。
「活躍」「活用」もあり、最近は「活」が付いたら気をつけろ、と思っている。現在も、奨学金の借金返済はずっとついてまわっている。
■制約ある働き方とは?
「制約ある働き方」に含まれている「制約」とは、主には「育児や家事などの再生産労働(不払い労働)」が、食い扶持を稼ぐための生産労働(賃労働)を制約している。しかし、再生産労働は「制約」なんだろうか? むしろ、「食い扶持を稼ぐため(だけ)の労働」こそが、私たちの豊かな「はたらき」を制約しているのではないか? 反転して考えてみたらどうだろうか? かといって、「再生産労働」はすばらしい労働で、崇高な働きであるが、それが大事だ、というだけで十分か。おそらくそうではないだろうと思うので、「働くっていったい何なのか」を一緒に考えたい。
■3.11が露呈したもの~被災者と生活困窮者は別?
今日のテーマを考える時、いつも頭にあるのが、3.11が露呈したものである。家や土地や仕事を失う人がたくさん出た。つまり生活困窮者が圧倒的に増加したはずで、生活保護を受給する人が圧倒的に増えたはずだがそうでもない。この時、被災者に対する対策が別建てて設けられた。生活保護が適用されれば別建ての支援は不要だったが、生活保護を増やしたくなかったので別建ての支援を設けた。その背景にはホームレス等への支援の回避があると言われている。
つまり被災者もホームレスも共に家がないという困難は共通しているはずだが、被災者には仮設住宅が与えられ、ホームレスには与えられないというダブルスタンダードがこの時露呈した。これは経済活動の再建としての復興支援と社会保障が財務分担の矛先としてトレードオフになっていたのではないか。
近年でいうと、いわゆる「子どもの貧困」「女性の貧困」「下流老人」等、冠(かんむり)「貧困」がはらむ危険性がある。それは、「子どもの貧困」への対策は「正当化」される一方で、「成人の貧困」への対策は「脱正当化」され、稼働年齢層は「お前は働けるだろう」ということで自己責任化されて、貧困対策がとられないことと表裏一体である。
顕著なこととして、「経済成長」(生活水準)」と「生活/生命」がトレードオフ関係に置かれていることが露呈した。男の人は、稼ぐ、食っていくということを守ろうとして福島にとどまることを選んだのに対して、母子はそこを離れて「命」を守ろうとした。チェルノブイリの時もチェルノブイリ離婚と言われたように、福島でも同様の事例が多かったと言われている。
本来はトレードオフではないものを日本の社会はトレードオフにしてきた。独特の社会構造を持った国であることが明らかになった。
■開発主義型福祉国家・日本
開発主義というのは、国民の福祉よりも経済成長を優先させる資本蓄積体制のことで、高度経済成長期の日本で展開された。それは日本型雇用慣行により支えられており、経済成長を促す一方で、労働者に過労死に至る長時間労働を強いて、その生活/生命を犠牲にしてきた。
このシステム―こうした働き方は単独ではできず、労働力の再生産を家庭で担うことによってはじめて可能になる働き方である。ここに「性別役割分業」が強固に残っているゆえんがある。さらに、開発型福祉国家は日本型福祉社会―家族の福祉を含み資産として、家族の福祉を最大化し、国家の福祉を最小化していく福祉社会―によって補完されてきた。
■日本型雇用システムと「女」
以前は社会のだいたいをカバーしていた日本型雇用システムが、90年代以降、雇用のフレキシビリティによってやばくなってきた。女の視点に立てば、日本型雇用システムは原初からその問題を内包していた。もともと典型/非典型雇用の二重構造を維持しながら、非典型雇用者を周辺化しつつ雇用の調整弁として活用してきた。非典型雇用の中心はずっと女であり、増え続けている。もう1つは、典型雇用の働き方も、その労働力の再生産―家事労働を一手に担う妻の存在がなければ成立しなかった。つまり、典型雇用も非典型雇用も女のシャドーワークによって支えられてきた。その背景にあるのは、性別役割分業に基づく近代(標準)家族モデルである。
■「女」のはたらくをめぐる不利①
①賃金格差
男性一般労働者の賃金100/女性労働者の賃金70.9
②雇用形態の格差
女性:非正規54.6%(正規46.4%) ※女性労働者全体の54.6%が非正規雇用
男性:非正規19.8%(正規80.2%)
③性別職務分離/間接差別
感情労働と言われるピンクカラー労働は相対的に女性が多く、例えば介護労働者の8割は女性で、訪問介護に限ると9割が女性である。
④ハラスメント
パワハラ、セクハラ、マタハラ等のハラスメントにあうのも圧倒的に女性が多い。
■「女」のはたらくをめぐる不利②
・家事関連時間(社会生活基本調査)(平成18年、23年)
世帯類型別が出ている平成18年 男:38分 女:3時間35分 ⇒ ほぼ6倍
(平成23年 男:42分 女:3時間35分)
男は「俺が稼いでいるから、妻が家で家事をするのは当たり前だろう」という。
・「共働き世帯のうち妻の週間就業時間が35時間以上の世帯」
夫:33分 妻:3時間25分 ⇒ 働きすぎ!
・「夫が有業で妻が無業の世帯」の場合
妻の家事関連時間:6時間52分 ⇒ ほぼフルタイム!
では、何が賃労働と違うかというと、支払われないという一点である。
■「女」の社会保障エンタイトルメント(受給要件)
女性の社会保障エンタイトルメント(受給要件)は、性別役割と婚姻関係の2つに影響される。
性別役割では、「母」という役割と引き換えにもらえる「児童扶養手当」、「児童手当」や、「妻」という役割と引き換えに「年金第3号被保険者」がある。そうなってくると、母でもない妻でもない単身女性は、例外/残余ということになる。単身女性は、社会保障制度上は「エラー値」だと思われている。もちろん労働者として、制度に捕捉されることは当然あるが、それは男としてという意味である。労働者として補捉される時、労働市場においては圧倒的な男女差別に遭遇するし、それが社会保障も引き継がれる。社会保障は従前の所得によって給付額が異なるので、ずっと不平等が続くことになる。
「単身女性」を対象とした唯一の社会福祉政策が、「婦人保護事業」で、これが定められている法律が「売春防止法」である。これはどういうことかというと「母」でもない、「妻」でもない女は、「売春婦」になるおそれのある者とみなされて保護されるということである。あるいは、「二級市民」として「生活保護」を受けることになる。
つまり、原則的に日本の社会保障の受給要件は、婚姻関係に関する序列に基づいた編成となっている。一番上が「専業主婦」で、年金第3号保険で103万円、130万円の壁以下で働く大量の「主婦パート」が生まれた。シングルマザーにも、序列が作られている。制度が定める「シングルマザー」の序列としては、一番えらいのが死別、次が離別、全然えらくないのが非婚という序列にされている。
■女にとって「日本型生活保障システム」の含意
これらの制度によって、女は特定の生き方・働き方を選択するように強要され、促されている。「ちゃんと結婚して、子どもを作って、時には、家計補助のためにほどほどにパートして」と。そして、最近よく言われている女の間の分断が作られている。昔から言われているのが「働く女」と「主婦」の分断。特に90年代以降は「バリキャリ」と「ワーキングプア」の分断も先鋭化している。「子持ち」と「子なし」の分断などいろいろな線が引かれている。そうした中で女の連帯が難しくなってきているが、こうした分断によって本当に得をしているは誰なのかを考えなければならない。
■日本型生活保障システム
資本主義社会は生きていくのに金がかかる。お金を入手する手段でもっとも一般的で当たり前だと思われている手段が「賃労働」である。「安定した雇用と安定した家族」が「標準家族」と言われ、前提となっている。しかし、人は、何らかの理由で働けなくなる時がある。それは病気になる、退職するなどあると、社会保険制度がある。それは、保険制度に加入していないと受けられず、こぼれ落ちた人は、公的扶助(生活保護)になる。
■日本型生活保障システムの<現在>
・賃労働の<現在>
年収200万円以下の人口が1,000万人以上。労働者の3分の一が、非正規で「ワーキングプア」になっていて、賃労働が生活保障として機能しなくなっている。
・社会保険の<現在>
国民健康保険の滞納は約450万世帯になり、国民年金未納者40%で、機能不全が起きている。
さらに、住宅、教育、医療等の社会サービスも不十分で、生活保護への負担が過大になっているように見える。社会制度が変わってきているのに社会保障が変わらず、制度疲労が起きてきた。
2013年度、生活保護が制度成立以降はじめて大改革され、その方向性が問われるべきということで、生活保護バッシングが起きた。それに呼応して制度改革が必要とされ、
①不正受給だとして、調査、指導権限の強化がされたり警察官OBの配置がされた。
②不正使用も増えているとされ、「家計・生活指導の強化」がされ、現物給付・クーポン化、代理納付が提案された。
さらに、働きたくない「怠け者」は③就労忌避とされ、就労自立支援の強化、制裁強化、生活保護基準の切り下げの見直しがされた。
また、④過剰受診が多いとされ、受診回数制限、電子レセプトで過剰受診を管理し、後発医薬品の使用促進などが提案されてきた。
■生活支援戦略―就労・自立支援の強化
平成25年から32年の7年間で生活困窮者の支援体制の見直しが行われ、長期的には、新たな生活困窮者制度の構築と生活保護制度の見直しがされることになっている。
就労可能な者に対しては、あらゆる段階で就労・自立支援が必要とされ、そのインセンティブを強化していく。ボロボロの状態で保護を受けさせた人にも保護開始直後から集中的な就労支援をして早期脱却を目指すとしている。3か月から6か月たっても就労していないと、今度は職種や場所を広げて就活をさせて低賃金、短時間でもまずは就労しろという方向へ持っていく。就労開始後は、勤労控除の見直しがされたり、保護脱却時のために就労収入の積立てをさせる。問われなければいけないことは、「就労自立」は、「保護からの脱却」ありきの支援になる、ということ。
そもそも、稼働能力はどのように判断されているのか? 今行われている判断は、年齢と医学的な判断の二つしかない。
それから、労働市場への影響はどうかというと「合法的闇労働」がでてきている。つまり、どんなに低賃金でも、短時間でも、むちゃくちゃ使い勝手のいい労働でも「いいから働け」と言って、「ワークファースト」(仕事が第一)と言って就労させる。そうすると最低賃金引き下げが起き、福祉の削減とセットで行われる。とにかく生活保護費を引き下げたい。
■ライフスタイルの改善支援
健康管理では、まず受給者自ら健康管理することを義務とし、健康管理に着目した支援を強化して医療扶助の「適正化」に接続しようとする。家計管理では、保護費の適切な管理を受給者の責務とし、必要な者には、支出内容を事後でも把握できるような取り組みをしようとしている。
ここで問われなければいけないことは、「健康管理」「家計管理」も原則「自己責任」としていることだ。他方で「支援」の名のもとに、一般市民では当たり前に甘受している「ちょっとよくないことをする」権利が侵害されている。たとえば、深夜に良くないとわかっていてもポテトチップスを食べ過ぎてしまうとか、ちょっと健康に良くないとかわかっているけど、「しちゃうよね」という一般市民では許されていることをすると家計管理や健康管理ができていないとされてしまう。ケースワーカーが支出管理をすることが可能になった。既存民間住宅ストックの利用は、一般市場では需要のない劣悪な住宅への生活保護受給者を囲い込み、「ゲットー化」するものになる。あとは、ジェネリック医薬品の推進も図っている。管理の強化、保護受給者の二級市民化がされていく。
■不正・不適正受給対策の強化
自治体の権限が強化され、制裁措置の強化、罰則の引き上げ。警察との連携も強化されていく。問われなければいけないことは、自治体の権限・裁量の強化は、受給者の権利の侵害と表裏一体であることだ。「制裁」とか「ペナルティ」という言葉から明らかなように、懲罰的性格が強まりつつある。それは、警察OB配置の素地になっている。
■生活保護基準の切り下げ
生活保護基準の含意は、具体的な支給額を定める実践的側面として、年金や最低賃金の引き下げをはじめ、その他の社会保障に影響を与えることが重要なことだ。
もう一つ重要なことは、国家が保障すべき国民の最低生活の内容を定める規範的な側面がある(ナショナル・ミニマム)。生活保護切り下げのレトリックは「バランス」論法である。年金額や最低賃金と生活保護基準との「バランス」、ワーキングプアの所得と生活保護基準の「バランス」が議論され、それを根拠に、「最低生活基準」が引き下げられようとしている。そもそも、国が定めている最低生活(生活保護基準)に合わせるのであれば、最低賃金を上げるべきである。忘れてはいけないのは、バランスに目を奪われて、規範的な 側面が隠ぺいされているということだ。
■扶養義務強化の孕む問題
一つは、家父長制の強化の問題がある。
家父長制下では、家庭内の問題が隠ぺいされる。それは女の不払い労働、家庭内暴力、障害者の囲い込み、不登校、引きこもり問題としてあった。80年代、90年代には、隠蔽されてきた問題が少しずつ「社会問題化」されてきた。「家族」に問題解決を委ねるのではなく、問題を「社会化」されなければいけないとされてきた。それに対して、現在、扶養義務強化をめぐる議論は、ある意味で責任を家父長制家族に戻そうとする「バックラッシュ」であると言える。
二つ目は、階層の固定化、貧困の再生産である。
扶養義務が強化されると、貧しい世帯で育った子どもは、仮に、その子どもが頑張って経済的に自立したとしても、貧しい親の扶養を一生抱える。なかなか貧困から抜け出せない。階層の固定化と言える。そもそも親が裕福であれば、そうした義務を負わずに済むうえに、様々な援助を親から受けられる。
■生活保護「改革」の含意と生活保護の縮減
一つは、「標準世帯」へのしがみつきがある。「標準世帯」は、「安定した雇用」「安定した家族」を前提としている。しかし今日では、安定した家族、雇用が維持できなくなっている。「商品化」「家族化」を促す既存の福祉制度は機能不全になってきたと言える。
ところが、改革の方向性は、いっそうの「商品化」、稼働能力があるとみなされる受給者への強制に近い就労促進(資本制)という方向と、いっそうの家族化・扶養義務の強化(家父長制)へ向かっている。総じて「標準世帯」にしがみついて資本制、家父長制を維持、強化しようとする流れ、最初から、その無理が見えており、その寿命は長くないだろうと思う。生活保護は、貧乏人の生活を保障することを放棄したといえる。
改革の全体像をみると明らかに、「入口」(水際作戦など)、「受給中」(保護基準引き下げ等)、「出口」の保護脱却促進(就労支援強化、健康、家計管理強化)ですべて、受給抑制・縮減されている。
全体的に生活保護の縮減、抑制の志向である。
■「ふるまい」「モラル」への焦点化
宇治市と京都市の「誓約書問題」では、母子世帯に「男性関係がない」と誓約書を書かせた。兵庫県小野市の「ギャンブル条例」では生活保護受給者のパチンコが問題になり、それを見つけたら、福祉事務所に市民が届け出る義務があるとされた。横浜市の「暴力団員該当性点検要綱」では、範囲が拡大されて粗暴な言動が問題とされた、それで生活保護を受給させないということが起きている。
「モラル」への焦点化の例としては、お笑い芸人の母親の「不正受給」バッシング問題があった。そこから、制度改正され扶養義務の強化、調査権限強化へ水路が付けられてしまうことが問題、それこそ「違法」だ。
注意したいのは、「ふるまい」や「モラル」が厳しく問われるのは、貧乏人のみであることだ。金持ちが寿司食っていても何も言われないが、貧乏人が寿司食っていたら国家にお世話になっているんだから「ふるまい」、「モラル」が問われるということになっているのである(階級的差異)。
■生活保護受給者の「二級市民化」
これまで話してきたことからも、生活保護受給者では、「ふつうの市民」としての権利剥奪が常態化し、保護受給者の「二級市民化」が進行している。もっと言えば、「犯罪者化」されていて、ますますスティグマ化されている。「懲罰」としての生活保護になっている。
どうして、これが、今の労働問題にかかわってくるかというと、「生活保護よりまし」という考えが生まれるからだ。二級市民化されて市民としての権利が奪われるくらいだったら、低賃金で劣悪な労働条件でも働くほうがいいという意識が作られ、そうすると、国家としても生活保護費が安く抑えられるし、資本としても安い労働力が確保できるということで、国家と資本の甘い関係ができていく。
その意味で、実は生活保護というのは、労働問題を考えるときにとても大事だと思う。
■望ましい方向性を夢想すること
制度の抜本的改革が目指されるとすれば、「脱商品化(雇用に固執しない)」と「脱家族化(標準家族の形成に固執しない)」を志向することである。どの程度商品化されているか、家族化されているかによって、人を分断したり、序列化しない生活保障システムが必要ではないか。
週1日働いている人と、週5日働いている人の賃金が異なることが、本当に当たり前なのかと考えると、いくつかの展望があって、1「ケア提供者手当」、2「参加所得」、3 「基本所得・ベーシックインカム」である。説明すると、、、
■ケア提供者手当/参加所得
「ケア提供者手当(Caretaker Benefit)」とは、家事や育児を担っている人に、そのケア労働の遂行に対して支払われる手当。「参加所得(Participation Benefit)」は、ケア提供者手当よりもう少し範囲が広くて、家事・ケア労働に限らず、社会活動やボランティアなど社会的に有意義だとみなされた活動を担うとそれを条件に支払われる給付で、こうした賃労働ではない働きに対してお金を支払うという政策構想がある。これが家事やケア労働の価値を再評価するということで、70年代ぐらいから一部のフェミニストに支持されてきた。
■ケア提供者手当/参加所得の問題
しかし、給付を得るには、家庭内で家事やケア労働に従事しなければならないので、結果的に女を家庭内に幽閉してしまって、性別役割分業を強化してしまう可能性がある。
2つ目の「参加所得」については、「誰が」「どのような活動」を社会的に有用であると決めるかという問題が残る。現実的には何らかの官僚主義的な手続きを経ることになる。そうすると、官僚主義的規則になじまない形態で、家事やケア労働を遂行していた場合、給付の受給要件を満たさなくなる。役に立つと思ってパクチーの種とか植えていても、それを政府が有用ではないとみなしたら給付をもらえなくなる。そうすると豊かな働きが縮められてしまう可能性がある。また「参加所得」をもらっていない人には、社会的に有用でないというスティグマが付与されこともある。
■ベーシックインカム(BI)
ベーシックインカムとは、「すべて人がその生活に必要な所得を無条件で保障されること」を要求するものである。「資産、所得、労働、家族、性別、婚姻、年齢、障害などを問われない。あらゆる生の分断と、分断に基づくヒエラルキーは、所得を保証するという一転に限っては拒否される。人はただその生存のゆえにベーシックインカムを要求しうるということである。資本主義社会は生きていくのに金が必要な社会なので、その人に生きていけというのであれば、最低限の金は人権として保障するという考え方である。一番いいところは、「働いていてもいなくても、結婚していてもいなくても、男でも女でもそのいずれでもなくても、何歳でも、極悪人でも、痴(し)れ者でも」とにかく関係ない。何していてもいい。人の生き方を国家が誘導しないものである。
■Kathi Weeksの議論を少し・・・
このベーシックインカムの議論について、オキュパイ(占拠)運動の中で読まれていたカシィ・ウィークス(Kathi Weeks)は、「今日の労働をめぐる問題は、〈生きるために労働しなければならないという現実をわれわれが受容してしまっているということ〉ではなく、〈われわれが自ら進んで労働のために生きているということ〉と指摘している。また、彼女は70年代に始まった再生産労働をめぐる論考「家事労働に賃金を」(マリアローザ・ダラ・コスタ)を読み直して、これをベーシックインカムに接続していくという試みをしている。
ベーシックインカムの要求も、「家事労働に賃金を」の要求も、欲望に満ちた主体の可能性を話し始める。禁欲的ではないところがいいところで、児童扶養手当を切られないためには良い母親を演じなくてはいけないとか、男と暮らしたいとか、ケーキが食いたいという欲望を言ってはいけないということは一切ない。
「賃労働」だけが、生活保障の唯一の正当な手段であるという考え方を拒否することで、労働に隷属しない生き方を示してくれるということを言っている。
雇用を保証するための新しい武器がベーシックインカムである。多くの人は食い扶持を稼ぐために、すごく嫌な情勢でも働かなければならなかったが、「ベーシックインカムがあるので辞めます。もし、私に働き続けてほしいのであれば、労働条件を上げてください」と今よりは言いやすくなるということで一つの武器になりうる。
「メーデー」を「ベーシックインカムデー」へという運動がヨーロッパで2年前からある。メーデーはもはやより多くの所得や高い賃金を要求するためのものでない。むしろ不必要な労働や望まない労働、搾取的な労働からの解放のためにあるべきだ、といふうに訴えている。そうなると「メーデー」というのは労働時間の削減、より多くの余暇時間と市場の力の外部における自由を獲得するための祝祭日である。
■女性の「活用」「活躍」
90年代から働く母親支援が強調されるようになってきたが、女を働かせることで労働力不足を解消しようとし、さらに成長戦略として母親として少子化の解消にも貢献してもらいましょうという戦略である。女性は単に子産み、子育て要員としてだけではなく、労働力としても重要な資源としてみなされるようになってきた。つまり「就活」「婚活」「妊活」が求められている。
女性「活躍」「活用」の注意すべき点は、性別役割分業の解消は皆無であり、男女平等はハナから目指されていないことである。要は成長戦略に過ぎず、かつ社会保障費の抑制と常にセットで、再生産労働は女の不払い労働に依拠したままという姿勢は変わらず維持している。あくまでも成長戦略の一環における女性活用であり、「制約ある働き方」がこのような形で制度化されたら、女性はますますしんどくなっていくだろう。
■あらためて、「はたらく」を考え直す
・「雇用」に限らない、さまざまな「労働」「はたらく」のかたちがある。「労働」「はたらく」の概念を広げ、雇用労働を中心に考えるのではない方向性をめざしていこう。
・社会は雑多な者、雑多なはたらきで構成されている。「貢献」の範囲を広げると同時に、「貢献」「活躍」しなければならないという原則をやめましょう。
・雑多な者の存在輪前提とした生活保障=「ベーシックインカム」という構想を考える。
・男でも女でもそれ以外でも、大バカ者でも怠け者でも「役立たず」でも生きられる権利を!!
・人が生きること=労働・暮らしは「賃労働」と「再生産労働」の時間だけではないはず。たとえば、母子世帯の困難をみても、経済的困窮は語られるが、時間の貧困は隠蔽されているのではないか。人間らしい暮らしには「自分のため(だけ)の時間」が必要である。